茉奈と東條先生と指輪

あの日から、東條先生の左手の薬指からは、指輪がなくなりました。

紗綾さん、という一人の女性が現れてから。

一年前に東條先生と初めて出会ったときから、茉奈は東條先生が指輪を外しているのを一瞬も見たことがありませんでした。

どうしてこんなにも気になってしまうのだろう。
あまりにもつりあわない恋だと知ってはいるのに。

茉奈は、いつもの場所、いつもの椅子に座って、紙コップに入ったコーヒーを飲みながらため息をつきました。

ここは、都内某所のコワーキングスペース。

茉奈が初めてここに来たのは、去年のことでした。

中学三年生の夏、部活を引退したあと、茉奈は何にも意義を感じられず、打ちこめない、いわゆる燃えつき症候群になっていました。

茉奈は、クラスに友だちと呼べる人がいませんでした。

きっかけは、中学2年生の時に、クラスで一番カッコイイと言われている男子の告白を断ったことです。

茉奈にフラれた男子は、復讐のつもりか、あてつけに茉奈について事実無根のウワサを次々と広めていったのです。

もちろん、最後まで茉奈のことを信じてくれた友だちもいました。

しかし、「昨日まで自分のことを好きと言ってくれた人」が、すぐさま手のひらを返し、自分のことを侮蔑し、敵対視するという姿をみて、茉奈はどことなく人間不信のような感情を募らせるようになっていったのです。

茉奈は、次第に自分からクラスメイトに壁を作るようになりました。

そして、周囲と表面的には仲良く接しながらも、内心ではまったく打ち解けなくなってしまったのです。

一方で、茉奈はすべてを打ち込んで部活動に励むようになりました。
自分の存在意義をそこにつなぎとめるかのように、ただひたすら必死に打ち込み続けたのです。

そんな茉奈が部活動を引退して、もぬけの殻のようになってしまったことは、しかたのないことだったのかもしれません。

実際、茉奈にやる気がなかったわけではありません。
ただ、勉強をやろうと思って、机に向かってみても、なぜか身が入らず、集中できないのです。

それまではテストで平均よりも高い順位だったのにもかかわらず、気づけば赤点近くまで成績が落ち込むようになっていました。

そんなとき、母が気分転換にと、このコワーキングスペースに連れていってくれました。

茉奈はすっかりこの空間が大好きになりました。

オシャレなカフェのような空間で、仕事をしている人たちもいて。
そんな中で時間を過ごしていると、なぜだか自分が少しだけ大人になれたような気分がしたのです。

それから茉奈は毎日のようにコワーキングスペースに通いました。

夏の終わりが近づいてきて、うだるような暑さが少しだけ落ち着いてきた頃のことでした。

参考書にフェイクレザーのブックカバーを被せて、勉強をしていると、長身のどこか世間離れした雰囲気の大人の男性が、茉奈の目の前を通りかかってきました。

すれ違いざまに目があって、軽くほほえみながら無言で会釈をしてきた彼を見たそのとき、一瞬だけ時が止まってしまったかのような気がしました。

それが、東條先生でした。

東條先生はそのときコワーキングスペースを利用して個別指導塾の会社を立ち上げた友人の手伝いをしていました。

講師が集まるまでの間、東條先生が代わりに教鞭をとっていたのです。

茉奈は、親に頼み込み、東條先生に早速家庭教師の依頼を出しました。
こうして、茉奈と東條先生との関係が始まりました。

東條先生は茉奈に勉強を教えるだけではなく、様々な相談にも乗ってくれました。

そして、茉奈がクラスに居場所を見つけられず、ひそかに孤独感を募らせていることを打ち明けたときも、東條先生はやさしくほほえみながら、黙ってうなずいてくれました。

そして、こう言ったのです。

東條先生
私も、茉奈ちゃんと昔は一緒だったんだよ。
人から裏切られて、人を信じることが怖くなってしまったことがある
東條先生
あんなに苦しい過去はなければよかったと、今でも不意に思うときがある。
でも、そういう体験をしたからこそ、今は人の痛みがわかるし、人に優しくなれるようになったんだ

茉奈はその言葉を聞いて、自分が抱えていた心の重みが、ほんの少しだけ軽くようになった気がしました。

このままじゃダメだよね。
という気持ちが胸に芽生えました。

しかし、それは自分を否定したり卑下する気持ちではありませんでした。

もっと、前向きな気持ちで自分が抱えている問題と向き合っていきたい。
そんなポジティブな感情でした。

それから、茉奈は、少しずつ周囲とまた打ち解けるようになりました。

学業面でもめざましい成果をあげるようになり、以前の成績では考えらなかった進学校に推薦入学が決まりました。

そんなふうにして、時間を重ねながら、茉奈は東條先生に心を寄せていきました。

けれど、東條先生の左手の薬指には、いつも銀色の指輪がありました。

その銀色の指輪を見るたびに、茉奈の心には赤黒くて重たい鉛の塊が冷たくのしかかってくるようでした。

東條先生、あなたはどんな人を思っているの?

どんな人と付きあって、どんな人と想いを重ねあっているの?

東條先生のことを考えると、眠れなくなる夜が続くようになりました。

それが、今日までずっと続いてきました。
高校に進学して、新しい環境に身をおくようになってからも、想いは一層強まっていくようでした。

そして、まさに一週間前。
東條先生は指輪をつけなくなりました。

これが、チャンスだなんて思えるほど単純なものだったらいいのに。

紗綾さん、という一人の女性が茉奈の心に影を落としていました。

わからない。

ストローの袋を左手の薬指に巻き付けては、それを指から外して、今度はくしゃっと丸めてみる。
ストローの袋を指先で、もてあそびながら。
自分の心も、何かにもてあそばれているように感じている茉奈なのでした。