茉奈と紗綾と恋の病

茉奈
(また、東條先生に会いにきてしまった)

東條先生が左手の薬指につけている、銀色の指輪に茉奈は目を落としました。
胸に鉛がつまってしまったような重さ、ぎゅっとしめつけられるような痛みが押し寄せてくるようです。

それでも、必死に笑顔を作って茉奈は東條先生にほほえみかけます。

茉奈
東條先生、こんばんは!
東條先生
やあ、茉奈ちゃん。
こんばんは。
沙綾
あれ、東條君久しぶりじゃない!

東條先生
さ、紗綾…!
茉奈
(すごくキレイな人…)
沙綾
ちょっと、東條君。
あんた、未成年の女の子と何やってんの?
東條先生
え、えーと、違うんだ。
この子は…
沙綾
冗談よ!
私は、榎本紗綾。
よろしくね!
茉奈
井上茉奈と申します。
よろしくおねがいします。
沙綾
まなちゃん、ね。
あなた、とてもかわいい!
茉奈
あ、ありがとうございます
沙綾
ところで、私の名前は「えのもと さや」と読むわ。
このフキダシだとルビがふれないから、念の為に言っておくね
東條先生
(初登場にして、なんてメタ発言…。)
沙綾
ところで、東條君。
「恋愛依存症」なんて恥ずかしいようなタイトルの本を読みながら、あんた今何やってんの?
東條先生
えーと、今はボランティアで児童福祉施設の相談員をやっていてね。
愛着障害や依存症について勉強を始めたところなんだ。
沙綾
そう…。
沙綾
まなちゃん。
あなたも、とっても辛い思いをしてきたのね。
私のことは、「さやおねえちゃん」と呼んでいいわ
東條先生
いや、茉奈ちゃんは施設の子どもじゃないんだ。
去年このコワーキングスペースで家庭教師のバイトをやっていたんだけど、その時の教え子でね。
沙綾
あら、勘違いしてしまったわ。
茉奈
東條先生にはお世話になりました。
今は、恋愛講座?みたいなことをたまに話してくれます。
沙綾
あんたが恋愛講座!?
なに、具体的にどんなこと話すのよ?
東條先生
そうだねえ。
じゃあ、今読んでる本もふまえて、「恋はなぜ苦しいのか」なんてのはどうかな?

恋はなぜ苦しいのか

さて、前回までの内容を少しだけおさらいしましょう。

恋をしているとき、私たちの脳内では、ドーパミンやフェニルエチルアミンという神経伝達物質が分泌されます。

これが、脳内で覚せい剤とほぼ同じ働きをします。

具体的には、著しい高揚感やエネルギーをもたらすと同時に、切れたときは、激しい脱力感や疲労感に見舞われます。

恋の多幸感やときめき、神秘的な感情は、こういった神経伝達物質が生み出しています。

失恋をしたときの胸の痛みや絶望感は、考え方を変えても、簡単に消えてなくなるようなものではありません。

それは、ドラッグが切れたときの離脱症状、禁断症状のようなものが脳内で起こっているからです。

その痛みや苦しみは、逃れられるものではありません。

そして、もし逃れるために次々と別の恋愛にのめりこもうとすれば、文字どおり依存症になってしまいます。


沙綾
なるほど。
要するに恋愛とは依存症だ、悪だと。
なんか、気にくわないわね
東條先生
そんなふうには言っていないよ。
ただ、恋愛の苦しさは依存症と同じ苦しみなんだ。
東條先生
だから、一度恋愛に、はまり込んでしまうと、容易に抜け出せなくなってしまう。

恋愛依存症とギャンブル依存症

さて、第3講でもふれましたが、人間の脳は、ドーパミンやフェニルエチルアミンといった恋の神経伝達物資が一人の相手に対していつまでも分泌されるようにはできていません。

しかし、このドーパミンやフェニルエチルアミンという脳内麻薬が切れてしまうと、そこからさらに次々と別の恋愛に乗り換える人がいます。

これが、ロマンス依存と呼ばれる恋愛依存症の一種です。

ロマンス依存は恋に恋する病。
いや、恋そのものに取り憑かれてしまう病といっていいでしょう。

実際には、ギャンブル依存症者と全く同じことが脳内では起きています。

前回でもふれましたが、フェニルエチルアミンやドーパミンといった快楽・報酬系の神経伝達物質の役割は「欲しくて仕方がなくさせる」ことです。

手に入らなければ脅迫的にそれを追い求めるようになるし、手に入れたとしても、心が快楽で満たされるのはほんのわずか一瞬です。

恋愛依存症の一種である「ロマンス依存」は、まさに脳内の快楽物質によって引き起こされる

まず、ギャンブル依存症も、ロマンス依存も「プロセス依存」というタイプの依存症に分類されます。

これは、アルコール依存症やドラッグ依存症といった「物質依存」とは違います。

アルコール依存症では、お酒を飲み続けているうちに、アルコールに耐性が付きます。
その結果、ドーパミンが活性化されなくなってしまい、脅迫的に追い求めるようになります。

しかし、適量ならば、問題はないわけです。

依存症になるリスクもありません。

覚せい剤も同じです。
医師の処方のもと、適切に服用し、乱用しなければ依存症にはなりません(副作用はありますが…)

ですが、ギャンブルに「適量」は存在するのでしょうか?

恋に「適量」は存在するのでしょうか?

ギャンブル依存症も、恋愛依存症も、目にはみえない行動そのものが目的になっています。

そのため、いつの間にかハマりこんでいて、コントロールすることができません。

プロセス依存の恐ろしさはそこにあります。

不確実な期待がもたらすもの

ギャンブル依存症者の脳を詳しく調べてみた結果、ドーパミンが最も分泌される瞬間がわかりました。

それは、スロットがあと少しで全部そろったというときです。
実際にスロットが全てそろった時と同じか、それ以上にドーパミンが分泌されています。

つまり、「あと少しでスロットが全部そろったのに」という期待が叶いそうな瞬間が快楽物質を生み出しているのです。

恋愛という行為そのものに依存してしまうというときも、同じことがいえます。

手が届きそうで、手が届かないというとき。
お互いが近づいたり、遠ざかったりを繰り返しているときに、恋の炎は最も激しく燃え上がります。

「欲しくて仕方がなくさせる」脳内物質が、手に入るかもしれないという不確実な期待によって高められるからです。

お互いを振り回してしまったり、時として傷つけあってしまうような不安定な恋の方がドラマチックで情熱的になるのは、そのためです。

苦しい恋であればあるほど、どっぷりと浸かってしまうのは、恋の痛みが淡い期待と結びつくことで強力な媚薬になってしまうからです。


沙綾
つまり、手に入りそうで手に入らない関係が一番燃えるわってことね。
確かに、わかるわ
東條先生
まあ、端的にまとめると、そういうことになるんだけど、
なんかなあ…。

まとめ

  • 失恋の痛みは、ドラッグの禁断症状と同質のものなので、とても苦しい
  • ときめきだけを求めて、次々と恋を渡り歩くと、恋愛依存症のリスクが高くなる
  • 恋やギャンブルなどのプロセス依存は、「手に入りそう」という期待こそが最も大きな高揚感をもたらす
  • お互いが近づいたり、遠ざかったりを繰り返す不安定な恋が最も情熱的になる
  • 苦しい恋であればあるほど、どっぷりと浸かってしまうのは、不安と期待が入り交じることで快楽・報酬系の回路が強化されるから

茉奈
(東條先生と紗綾さん、どういう関係なんだろう)
沙綾
東條君!
あんた、意外と面白いことやってんのね!
今まで読んだ恋愛心理学の本、全部教えてもらえるかしら?
東條先生
ああ。
でも、30冊近くあるよ?
沙綾
じゃあ、リストにまとめて送って!
これ私の連絡先だから。
できれば今日中ね!
東條先生
相変わらずだなあ…。
茉奈
東條先生!
私も本教えてください!
東條先生
全部専門書だからなあ…。
高いし、難しいよ。
茉奈ちゃん用の本は今度持ってきてあげるね
茉奈
(ん。連絡先、聞きそびれちゃった…)
茉奈
(あれ?東條先生、いつの間に指輪外したんだろう…?)

茉奈が目をやると、東條先生の左手の薬指には、もう指輪はつけられていませんでした。

これは、どういうことなんだろう?
たまたま外しただけなの?
さっきの紗綾さんって人が関わっているの?
東條先生とはどういう関係?

様々な疑問が茉奈の脳裏に浮かんできました。

何事もないような顔を続けながらも、茉奈は苦い気持ちをかき消すように、紙コップに残った一口だけの苦いコーヒーを口に運ぶのでした。